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27 November 2016

護真寺館跡

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(山形県大江町伏熊 2014年9月15日撮影)

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山形県遺跡番号324-042
http://www.pref.yamagata.jp/ou/kyoiku/700015/isekimap/pdf_city/oe.pdf
http://www.pref.yamagata.jp/ou/kyoiku/700015/isekimap/pdf/aterazawa.pdf

前回取り上げた「富沢城跡」からみて、最上川を挟んでその対岸に位置する。

承久の乱の後、
富沢に蟄居謹慎した大江親広の臣、中山忠義の居館跡と伝えられる。

写真上の「阿弥陀堂」は、県指定文化財でもある。

(参考:阿部酉喜夫1988『寒河江大江氏』
(大江公入部八百年祭記念事業実行委員会))

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21 November 2016

富沢城跡

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(山形県大江町富沢 2014年9月15日撮影)
山形県遺跡番号324-010
http://www.pref.yamagata.jp/ou/kyoiku/700015/isekimap/pdf_city/oe.pdf
http://www.pref.yamagata.jp/ou/kyoiku/700015/isekimap/pdf/aterazawa.pdf


大江広元の子、親広は、
幕府から京都守護に任じられていた西暦1221年、
「承久の乱」で後鳥羽上皇方につき、敗戦。
京都から、自分の所領である出羽国寒河江荘に落ちのびた。

親広を寒河江荘で迎えたのは、彼の外祖父・多田仁綱。
仁綱が親広をかくまう場所として用いたのが、
「富沢城」(現在の大江町富沢地区の西の山上)と伝えられる。

鎌倉幕府創業時の功臣・広元の息子である親広を
幕府が追討することはなかったが、
彼の蟄居謹慎は、約12年の長きにわたった。

故・阿部酉喜夫氏によると、
かの「御成敗式目」(1232年)の中には、
親広への赦免と、その後の寒河江荘再領有に適用された、と
考えられる条文がある、とのことである。
(下記参考文献39~43ページ)

(参考:阿部酉喜夫1988『寒河江大江氏』
(大江公入部八百年祭記念事業実行委員会))

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20 November 2016

本楯館跡

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(山形県寒河江市:2014年9月7日撮影)
山形県遺跡番号206-071
http://www.pref.yamagata.jp/ou/kyoiku/700015/isekimap/pdf/sagae.pdf
http://www.pref.yamagata.jp/ou/kyoiku/700015/isekimap/pdf_city/sagae.pdf

1189年、奥州藤原氏を滅ぼした源頼朝は、
その「奥州征伐」の論功行賞で、
出羽国「寒河江荘」を、大江広元に与えた。

鎌倉政権の中枢にあった広元は、
この新しい領地に、自分の妻の父・多田仁綱を派遣し、
その多田仁綱が屋敷を構えたのが、
現在の寒河江市本楯地区である。

(参考:阿部酉喜夫1988『寒河江大江氏』
(大江公入部八百年祭記念事業実行委員会))

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19 November 2016

新庄藩主戸沢家墓所

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(2006年10月20日撮影)


山形県遺跡番号:
付されていません(というか「史跡」ではあっても「遺跡」ではないのかも)。

国指定史跡(1987年)

この墓所は、新庄市の市街地の北部、瑞雲院という寺院にあります。
http://www.city.shinjo.yamagata.jp/k001/020/010/050/010/2575.html

・・・10年前に一度行っただけで、
しかもそのときもきちんと見せていただいたわけではないので、
いずれ、また、行きたいです。


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