「筋違い角」
2月22日、将棋のプロ棋士として「現役最年長」となっていた桐山清澄九段の「引退」が決定した、との報に接した。
私が本格的に将棋にハマり、またプロ将棋界の動向に強い関心を抱くようになったのは中学3年のときだが
その、1979年の9月号か10月号の「将棋世界」誌に載っていた
A級順位戦(当時の呼称は「名人挑戦者決定リーグ戦」)の、
▲桐山清澄八段 対 △加藤一二三王将 (段位・タイトルはいずれも当時)の棋譜と解説で
「筋違い角」という戦法を初めて知った。
その将棋は「筋違い角」を採用した桐山八段の快勝。
「こんな戦法があるんだ」と思い、自宅での兄との対局で何度か採用してみたら、
見慣れぬ指し方に兄が戸惑ったこともあり、何度も勝たせてもらった。
(兄が「適切な受け方」を知ってからは勝てなくなったが(苦笑)。)
ただ、私が外部の大会等で「筋違い角」を使ったことは、一度もないはず。(「使われた」ことは2回くらいある。)
大事な対局(ヘボのアマチュアにとっての、だが)での勝負を託すには、私にとっては難しくまた危険すぎる戦法だと、今でも思っている。
それはともかく、
今から40年以上前、私にとって「桐山清澄」という棋士は、まずは「筋違い角」の使い手、として強く印象付けられたのであった。
でも、その、1970年代末~80年代初め頃の桐山氏は、基本的には「振り飛車党」であり、
82年度に朝日新聞の棋戦で優勝したあたりからは、矢倉を主体にした居飛車党に転向した。
79年の対・加藤戦は何だったのかな、と思っていたら、
86年夏の棋聖戦五番勝負で米長邦雄棋聖(当時)相手にこの戦法も採用して、タイトル奪取。
米長氏のファンとしては残念ではあったが、当時のトップ棋士で次に応援していたのが桐山氏であったことも間違いないし、
また「タイトル戦で筋違い角」は、それ以前にはあった(木村ー升田など)としても、それ以降は、あるだろうか。
1990年3月、一般的には「大山十五世名人が引退をかけている?!」と言われた例のA級順位戦最終日の大山ー桐山戦。
少なくとも私は「桐山九段が勝って、A級残留を決めてほしい」と本気で思っていたのだが、結果は皆さんご存知の通り。
その後、桐山氏はA級に復帰することはなかった。
80年代には二上、大内、内藤、有吉、森、勝浦(順不同・敬称略)など、
A級とB1を何度も行き来する実力者は決してめずらしくなかったのだから、
桐山氏の実績・実力を思えば「A級復帰がなかった」のは今思えば不思議な気もする。
最近は
「通算1000勝を目前にして、足踏みが続いている」
「参加できる棋戦は「竜王戦」だけになり、しかも現役続行の条件は極めて厳しい」
ということで応援する声が高まっていたし、もちろん私も応援していたのだったが・・・。
決して目立つ棋士ではなかったが、
私にとっては、ここぞ、という場面でありえない戦法で強敵を倒す、まぎれもなく「ヒーロー」の一人である。
桐山氏の長年にわたる活躍と多くの実績・棋界への貢献に、心から敬意を表します。
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