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歴史

09 October 2021

「歴史は・・・」

「歴史は、勝者によって作られる」

みたいな言い方は、かなり以前からあると思うが、

最近、ネット上でみるそういう意見の多くは

「だから「勝者は、実は”悪”」「勝者が作った歴史は”ウソ”」で、

「敗者が、本当は”正義”」「敗者の視点の歴史こそが”真実”」」

と言いたげなものが多いようにも思う。(※個人の感想です。)

これに限らないが

「異なる視点からは、違うものが見えてきますよ」と、

「こっちが正しくて、そっちは間違いだ」は、

全く別のことなのに、

それを混同するかのような意見が目立つようになった気がする。

(それも、別に最近の話ではないのかも知れないが。)

 

 

24 September 2017

平野山古窯跡群


Hiranoyamakoyoushi1

山形県寒河江市
(山形県遺跡番号206-029
http://www.pref.yamagata.jp/ou/kyoiku/700015/isekimap/pdf_city/sagae.pdf)

Hiranoymakoyoushi2

2017年9月24日撮影

現・山形県の村山地方の須恵器編年の上で重要な遺跡のひとつ・・・だと思った。

この記念碑を見たのが「今日が」初めて、というのは、
自分としては大変情けないことでもあるのだが。

26 December 2016

寒河江城跡

山形県遺跡番号206-057
http://www.pref.yamagata.jp/ou/kyoiku/700015/isekimap/pdf/sagae.pdf
http://www.pref.yamagata.jp/ou/kyoiku/700015/isekimap/pdf_city/sagae.pdf

20140907sagaejo01

(2014年9月7日撮影)

南北朝時代、南朝方についていた寒河江荘の大江氏が、
「漆川の戦い」(1368年)で北朝方の斯波軍に大敗を喫したことと、
この戦いから程なく、北朝方に帰順したこととは、既に紹介した。

「寒河江城」は、その、北朝方に帰順したときの大江氏の当主、
時氏によって整備された、と伝えられる。

寒河江城の中心部が、現・寒河江市立寒河江小学校にあったことは
同市内の別の小学校に通っていたころに知った。
でも、そのころの私にはすでに「城」とか「城跡」とかに関する固定観念、
というか一種の偏見が出来上がっていたので
「天守閣も櫓も門も巨大な石垣もない城なんて・・・」みたいな、
今思えばかなり的外れな、がっかり感を強く抱いていたような気がする(苦笑)。

参考・阿部酉喜夫1988『寒河江大江氏』
(大江公入部八百年祭記念事業実行委員会)

23 December 2016

荻袋城跡(荻袋館跡)

20161223
(2016年12月23日撮影)

山形県大江町荻野
(山形県遺跡番号324-022
http://www.pref.yamagata.jp/ou/kyoiku/700015/isekimap/pdf/aterazawa.pdf
http://www.pref.yamagata.jp/ou/kyoiku/700015/isekimap/pdf_city/oe.pdf
ここでの呼称は「荻袋城跡」)

最上川の支流、月布川の河岸段丘上に設けられた城館跡。
「漆川の戦い」の古戦場とは、月布川を挟んで南側に位置する。

上の写真の中で、赤い橋のすぐ左にある丘が城跡。
現在は「長泉寺」という寺院がある。
20140923a
(2014年9月23日撮影)

「漆川の戦い」の際、野戦で敗れた大江氏の軍勢はこの城に立てこもった。
しかし斯波兼頼の軍に包囲され、結局、大江氏一族60数名が自刃した場所である。

この城よりもずっと堅固な左沢楯山城を頼っていれば、と思えるが、
斯波軍の巧妙な戦術がそれを許さなかった、というのが定説である。

参考・阿部酉喜夫1988『寒河江大江氏』
(大江公入部八百年祭記念事業実行委員会)

22 December 2016

「漆川古戦場」の碑

(山形県大江町本郷)
20151231a

「漆川の戦い」は、南北朝時代の1368年,
南朝方の大江氏一族と、北朝方の斯波兼頼らとの間に起こった合戦である。

戦いの詳細については、
下記の参考文献や、他のネット上の情報などを参照していただきたいが、
結果だけを言えば、大江氏一族の大敗。

斯波兼頼は勝ちに乗じて深追いをするようなことはなかったため、
その後も大江氏一族は寒河江荘の多くの部分を領有し続けたが
「北朝方」=室町幕府への抗戦はできなくなり、数年後には投降するに至る。

「漆川の戦い」とその勝敗は、出羽国南部の「南北朝時代」を、
事実上、終結させた、ということにもなった。

20161231b

「漆川古戦場」の碑は、1937年(昭和12年)2月にたてられた。
碑文には
「吉野朝」「逆賊足利尊氏」「官軍」「賊軍」など、
昭和12年当時に、南北朝時代やその時代の人物が
どのように見られていたか、を明確に示す言葉が、
もっと言えば、
「この碑が建てられた真意は、どこにあったのか」を
容易に想像させる言葉が並んでいる。

・・・皮肉なことに、それは、今日、一般的に
「南北朝時代」が敬遠あるいはスルーされる
理由のひとつだ、とも思えるが。

Dsc01230

(3枚とも、2015年12月31日撮影)

参考・阿部酉喜夫1988『寒河江大江氏』
(大江公入部八百年祭記念事業実行委員会)


21 December 2016

左沢楯山城

山形県大江町
山形県遺跡番号324-031
http://www.pref.yamagata.jp/ou/kyoiku/700015/isekimap/pdf/aterazawa.pdf
http://www.pref.yamagata.jp/ou/kyoiku/700015/isekimap/pdf_city/oe.pdf
国指定史跡(2009年)

20160925_1
(2016年9月25日撮影)

大江町の中心部、左沢(あてらざわ)地区の北、
ここまで北に流れてきた最上川が、
南東に大きく流れを変える位置に作られた山城。

14世紀後半、南北朝時代の正平年間(1346年~1369年)に
寒河江大江氏七代 時茂の三男、左沢元時によって築城された、
と伝えられる。
20160925_2
(2016年9月25日撮影)

当時、寒河江荘の大江氏は南朝方であり、
山形の斯波氏(北朝方)と鋭く対峙していた。
が、その斯波氏と大江氏一族とのあいだに起こった
「漆川の戦い(1368年)」の際には、
この城は活用されなかった、という。

また、
寒河江大江氏最後の当主、寒河江高基が1584年に
最上義光に滅ぼされたときにも、
この城が活用された、という話は聞かない。
20160101
(2016年1月1日撮影)

ともあれ、
16世紀末にはこの城は最上氏のものとなったわけだが、
17世紀初め(1622年)に最上氏が改易された直後に、
新領主の酒井氏によって廃城にされた。


なお、ご存知の方も多いと思うが
「この城跡から南側を見おろした風景」は、あまりにも有名だし、
画像も映像もネット上でいくらでも見ることができる。
その一方で
「この城跡そのもの」の画像は圧倒的に少ないと思うので、
今日は、そればかりを載せることにする。
20161002
(2016年10月2日撮影)

参考
・阿部酉喜夫1988『寒河江大江氏』
(大江公入部八百年祭記念事業実行委員会)

・左沢楯山城現地の説明版の文章
(大江町教育委員会)

・2016年9月25日の、左沢楯山城発掘調査説明会の資料
(大江町教育委員会)

20 December 2016

安国寺(山形県山辺町大寺)

建立:1339年
開基:斯波兼頼 開山:夢窓疎石

20161203a_2

安国寺は「一国一個寺」。出羽国の安国寺は、ここ、である。

20161203c_2

斯波兼頼が「出羽国按察使」として山形に入部した年は「1356年」が定説だが、
それと現地の説明版に書かれた「1339年建立」とのずれについては、
ここでは深追いしない。

20161203e_2

現在の建物は、18世紀中盤の火災後に再建されたもの。
そのときに、夢窓疎石の作と伝えられる庭園の多くも
失われてしまい、現在はその一部が残るのみ。

20161203d_2

それでも、門前の街並みの雰囲気と
村山盆地(山形盆地)を遠く見下ろす位置とに
「南朝方」についた寒河江荘の大江氏一族を意識した
「北朝方」の斯波氏の城郭寺院だったこの寺の性格を
偲ぶことができる。

(2016年12月3日撮影)

27 November 2016

護真寺館跡

20140915goshinjiamidadou2

(山形県大江町伏熊 2014年9月15日撮影)

20140915goshinjiamidadou1

山形県遺跡番号324-042
http://www.pref.yamagata.jp/ou/kyoiku/700015/isekimap/pdf_city/oe.pdf
http://www.pref.yamagata.jp/ou/kyoiku/700015/isekimap/pdf/aterazawa.pdf

前回取り上げた「富沢城跡」からみて、最上川を挟んでその対岸に位置する。

承久の乱の後、
富沢に蟄居謹慎した大江親広の臣、中山忠義の居館跡と伝えられる。

写真上の「阿弥陀堂」は、県指定文化財でもある。

(参考:阿部酉喜夫1988『寒河江大江氏』
(大江公入部八百年祭記念事業実行委員会))

21 November 2016

富沢城跡

20140915tomizawatate

(山形県大江町富沢 2014年9月15日撮影)
山形県遺跡番号324-010
http://www.pref.yamagata.jp/ou/kyoiku/700015/isekimap/pdf_city/oe.pdf
http://www.pref.yamagata.jp/ou/kyoiku/700015/isekimap/pdf/aterazawa.pdf


大江広元の子、親広は、
幕府から京都守護に任じられていた西暦1221年、
「承久の乱」で後鳥羽上皇方につき、敗戦。
京都から、自分の所領である出羽国寒河江荘に落ちのびた。

親広を寒河江荘で迎えたのは、彼の外祖父・多田仁綱。
仁綱が親広をかくまう場所として用いたのが、
「富沢城」(現在の大江町富沢地区の西の山上)と伝えられる。

鎌倉幕府創業時の功臣・広元の息子である親広を
幕府が追討することはなかったが、
彼の蟄居謹慎は、約12年の長きにわたった。

故・阿部酉喜夫氏によると、
かの「御成敗式目」(1232年)の中には、
親広への赦免と、その後の寒河江荘再領有に適用された、と
考えられる条文がある、とのことである。
(下記参考文献39~43ページ)

(参考:阿部酉喜夫1988『寒河江大江氏』
(大江公入部八百年祭記念事業実行委員会))

20 November 2016

本楯館跡

20140907motodate_2

(山形県寒河江市:2014年9月7日撮影)
山形県遺跡番号206-071
http://www.pref.yamagata.jp/ou/kyoiku/700015/isekimap/pdf/sagae.pdf
http://www.pref.yamagata.jp/ou/kyoiku/700015/isekimap/pdf_city/sagae.pdf

1189年、奥州藤原氏を滅ぼした源頼朝は、
その「奥州征伐」の論功行賞で、
出羽国「寒河江荘」を、大江広元に与えた。

鎌倉政権の中枢にあった広元は、
この新しい領地に、自分の妻の父・多田仁綱を派遣し、
その多田仁綱が屋敷を構えたのが、
現在の寒河江市本楯地区である。

(参考:阿部酉喜夫1988『寒河江大江氏』
(大江公入部八百年祭記念事業実行委員会))